八百万(やおよろず)の神に守られて   元サッポロビール博物館長 今堀 忠国
第4回 明日は明日の神が守る

 今の若い人は“陰膳”を知らない。陰膳とは“旅などに出た人の無事を祈って留守宅で供える食事”のことで、私は朝夕、陰膳を見て育った。
 私は昭和十八年、旧樺太大泊町(現コルサコフ市)で生まれた。実家は造船所をしていた。戦時中だったが、ガダルカナル島撤退、アッツ島玉砕、イタリア降伏が相次ぎ、日本は敗色濃厚だった。
 終戦の直前、国境を越えてソ連軍が侵攻してきた。そのとき母は二十四歳、お腹に妹がいた。病気の私を背負って混雑する大泊港の桟橋から引揚船に乗り込み、山形県酒田市の実家に身を寄せた。
 在郷軍人だった父は国境防衛戦に加わり、投降したあと略式の軍事裁判を受けてシベリアに抑留された。ラーゲリ(強制収容所)はエニセイ川下流、北極圏のイガルカにあった。栄養失調で死にかけたが、同情した市民が隠し持った黒パンを恵んでくれた。
 造船の腕を認められ二年で捕虜から解放され、クラスノヤルスクの造船所で働いた。だが日本に安否を知らせる手段はなく、留守宅には消息が不明のまま八年半が過ぎた。
冒頭の陰膳は卓袱台の上にならんでいた。小型の額縁に“見知らぬ男”の写真が収まっていて、お前の父親だと教えられたが、一歳で離別したから顔を覚えていない。母子三人の食事は寂しかった。
 私が五歳のとき、母は酒田を離れ宗谷管内利尻島に渡った。樺太から引揚げた父方の祖父が、網元の支援を受けて沓形町で造船所を再開しており、そこではニシン漁に使う和船を主に建造していた。
 生活は相変わらず貧乏だった。酒田にいた時、母はリヤカーで豆腐や油揚げも行商をしたので、食事には売れ残りの商品がならんだ。田んぼで捕えたドジョウ、タニシもおかずにした。しかし酒田は庄内米の産地なのでコメは何とかなった。利尻でも母は造船所の下働きをした。漁師からもらう魚を毎日食べていたので、月に二、三度のカレーライスが待ち遠しかった。
 母は朝晩、神棚に手を合わせた。それは酒田でも変わらなかった。ソ連との国交は回復せず、父の音信は途絶えたままなので、母は神様に祈るしかなかった。
 小学4年の春、親類縁者がラジオの前に集合した。抑留者引揚船の興安丸がナホトカを出港し、これから帰還者名簿が実況中継されるのだ。祖父が神棚の前で大きく拍手を打つ。ソ連からの引揚船はこれが最後かもしれない。NHKの特派員が名前を読み上げるたびに溜め息が漏れる。
「イマホリ、タダオさん」
 一気に喜びが炸裂した。母が悲鳴をあげて泣き崩れる。万歳三唱と、よかった、よかったの大合唱。後年、夫婦喧嘩をした母に「あの時はあんなに喜んでいたのに」とからかうと、「まあね」と答えた。
 数日後、毛皮の外套をまとった父が偉そうに胸を張って連絡船から降り立った。岸壁は町民総出の大歓迎で、日の丸や大漁旗があふれている。父は私の前に歩み寄り、頭を叩いて「お前がタダクニか」と言った。父は三十八歳になっていた。酒に酔うとロシア語でスターリンの悪口をわめき、寝言もロシア語なので、まるで異邦人のようだった。母は「私たちの苦労も知らないで、テンの毛皮なんか着ちゃってさ」とつぶやいた。
 大正生まれは戦争に翻弄された世代だ。大正は十四、五年しかないのに、その年代に生まれたせいで兵士として駆り出され、大勢が戦死した。父も二十一歳で召集され、日中戦争、ノモンハン事件に従軍した。シベリアでは幾多の同胞を凍土に弔った。
 四年前、父はさんざん苦労をかけた母の後を追うように八十九歳で他界した。造船が天職だった。船乗りの命を預かる造船業は、人智の及ばぬ先を神様に加護してもらう。父は造船の仕事はもちろん、軍隊生活や捕虜生活でも神様のご加護を受けて、波瀾万丈の人生を生き抜いた。
「明日は明日の神が守る」という俗諺がある。今は若者が夢を持ちにくい時代だが、戦争に蹂躙された父の世代と比較すれば、どうということはない。“格差社会”、“ワーキングプア”なんて甘えだ。若い人には、明日の神様を信じて、どんな時にも絶望しないでと、エールを送りたい。