シンガーソングライター 五十嵐 浩晃
第1回 小さな頃、僕は…

 昭和32年3月4日美唄市。高校の体育教師である五十嵐義治と、看護婦をしていた都詩子に次男が誕生、浩晃と名づける。4歳だった兄・康喜と、2歳になったばかりの姉・智子と僕・浩晃を抱え、新たに始まった五人家族の生活は裕福とは縁遠いものだった。
 実は僕の小さい頃の思い出は、冴えないものが多い。父は酒が大好きで人付き合いも大変良く、友人達と外で酒を飲んで帰って来ることも多かった。ある日ほろ酔いの父は僕のおもちゃにと、積み木を買って来てくれた。なぜかは覚えていないが、3歳だった僕はお土産の積み木をあたり一面に放り投げ、押入れに逃げ込んでしまった。父のドスンドスンという足音がして、襖がガラッと開けられたと思った瞬間、父は僕の首根っこを右手でムンズと捕まえ窓辺に。左手で窓を開けると、そのまま僕を勢い良く外に放り投げた。真冬の夜である。美唄の冬は雪が多く、とても寒い。雪の山に向かって飛んで行く(まるでスローモーションのように)、小さな僕自身が見た光景は今でもしっかりと記憶している。今思えば、僕が父の精一杯のお土産である積み木を放り投げたので、父も僕を放り投げたのだろう。今なら、なんとなくわかる気もする。でもお父さん、とても寒かったです。
 小学校に通うようになってからは、いわゆる不登校児になってしまった。これもなぜかはわからない。「行ってきます」と家を出てから少し時間を潰した後、家の物置で一日中過ごす毎日。当然学校から連絡が来て、母に発見され叱られながら学校へ行くものの、具合が悪いと言っては保健室にいるような小学生だった。はっきり言えば、僕は学校が嫌いだった。とにかくいつも独り遊びばかりで、二人でする将棋も一人二役。持続力だけは人一倍だったから、何時間でも壁を相手にボールを投げていられた。大人気だった力道山に憧れて、自分の右手と左手を対戦させた独り指プロレスも楽しい思い出だ。土管の上に乗ってバランスを取る遊びも、独りで夕飯に遅れるまでやっていた。僕は暗い子供だったと思う。成績の良い兄と姉に引け目を感じていたのか、僕の咆音の癖が僕を引っ込み思案にさせたのか。母も心配したことだろう。
 ただ、一つだけ、家族の顔を輝かせた思い出がある。夕飯の時だったと思う。ちゃぶ台の上に乗り箸をマイク代わりにして、当時流行していた水原弘の「黒い花びら」を僕は歌った。家族は手を叩きながら喜んでくれ、その笑顔を見て僕自身もとても嬉しかった。小さい頃の一番の良い思い出である。多分、初めて周りに認められたと感じた瞬間だったのだろう。或いは、初めて自分らしさを発見した時。
 美しい唄と書く美唄市に生まれ、詩の都と書く名の母を持つ僕が歌手になったのは、やはり運命なのだろうか。ちなみに僕の本籍は、歌志内である。