
札幌まつりは北海道神宮の例祭の通称で、毎年6月14、15、16日に斎行されています。
期間中境内では奉納舞台が行われ、屋台が軒を連ねています。また、中島公園では屋台やお化け屋敷なども催されており、街を挙げてのお祭りとなっています。
特に16日の渡御では、万燈のお囃子を先頭に、猿田彦、維新勤王隊など、1000人以上の時代装束を身に纏った行列が、笛や太鼓の音を響かせながら街中を練り歩く光景は、札幌に夏の訪れを告げる風物詩となっています。
〈宵宮祭〉 6月14日午後6時
〈例 祭〉 6月15日午前10時
〈渡 御〉 6月16日午前9時
明治5年(1872年)2月、札幌神社(現北海道神宮)の例祭日が6月15日と定められました。
しかし、この年は東京の式部寮より奉られるはずであった幣帛を預かった札幌神社権宮司 菊池重賢が札幌に到着したのが6月18日であったため、同年7月7日に小祀として斎行された。
これが北海道神宮例祭の始まりとなります。
翌6年の例祭は改暦のため、7月9日(旧暦6月15日)に例祭が斎行されました。それに先立ち同年7月3日に開拓使より「例祭当日は休日とし、札幌神社を参拝、もしくは遙拝すること」という布告が出されました。現在でも、6月15日は「郷土の日」として札幌市内の
公立学校等では半日が休みとなっており、札幌の建設業界では一斉休業する習わしとなっています。
尚、新暦の6月15日に例祭がされるようになったのは、明治7年のことでした。
明治11年6月15日の例祭には、札幌神道中教院・神道事務分局(現北海道神宮頓宮=札幌市中央区南2条東3丁目)開設の神事が斎行され、札幌神社の御祭神と中教院の四柱の神の御神霊をそれぞれに招き、神輿一基が市街地をご巡幸しました。
これが神輿渡御の始まりとなります。そして、この年の8月、市民からの強い要望があり、第3代宮司 大貫真浦により、神輿渡御の定例化のため、当時内務卿であった伊藤博文宛てに「札幌神社神輿市中巡幸之儀願」を提出し、10月、承諾の指令が届きました。
それにより、翌12年の例祭から札幌市民は市中へと札幌神社の神輿をお迎えする事が恒例となりました。
この費用はすべて札幌の人々によるものとされており、
当時の市民が神輿渡御をどれほど望んでいたのかが伺えます。
その後、神輿渡御は戦時中二度の中止はあったものの、令和元年には140回を迎え、現在に至っています。
札幌まつりを行う上で、基本となるのは祭典区という組織です。祭典区は札幌市民で構成される札幌まつりを取り仕切る組織で、神輿渡御の順路決めや各種手配といった事前準備の段階から奉仕を行っています。
札幌神社の鎮座以来、札幌区(当時の行政区画)民の世話人が奉仕にあたっていましたが、明治26年2月、第6代宮司 白野夏雲の発議により、札幌区を四区に区分しそれぞれに祭典委員が置かれたことが祭典区の始まりと言えます。
その後、祭典区は区分けなどを幾度の見直しを経て、明治33年には11の祭典区に区分され、持ち回りで祭礼に関する事柄を担当する年番制が始まることとなります。
この頃の祭典区は祭礼における催し物の準備・運営とともに、札幌水力電気株式会社の株主の募集、日露戦争中に行われた記念パレードなどにも関与しており、祭礼だけでなく、札幌の町を構成する基本となる単位とされていました。
札幌まつりの渡御に華を添えるのが、山車と呼ばれる、様々な飾りをつけられて引かれる屋台です。
札幌まつりの山車は、明治11年の例祭に薄野の芸妓、常磐津連中などが車二台で繰り出したのが始まりと言われており、
現在では9基の山車が9つの祭典区からそれぞれ出されています。