フランス料理シェフ 三國 清三
第3回

 十八才から二十才まで、朝も昼も夜も洗い場で、来る日も来る日もソースの鍋との格闘だった。最初の一年目は「なんとかなるさ」という気持ちで過ごすことが出来た。しかし二年目からはそうはいかなかった。毎日、同じことの繰り返しのなかで、次第に自問自答をするようになった。「やはり日本一は甘くないなあ」とか「札幌から来たのはやはり間違いだったのだろうか」そんな考えが頭の中に浮かぶようになった。
 上京前、札幌の先輩達に「東京は田舎者の行く所ではない」など、いろんなことを言われ、その時は「はんかくさい、やれば何でも叶うんだ、努力すればなんとかなるんだ」という強い気持ちでいたのに、実際には全て否定され、すっかり弱気になってしまった。そういうわけで二年目からは地獄を見ることになった。毎日自分と向き合った。しかし、答えは出ず、結果は何もない。苦しかった。自分の今までの考え方や生き方の全てが否定された二年だった。
 ひどく、辛い時期だったが、僕にはただひとつの支えがあった。PHP社が出版している松下幸之助の『道をひらく』という赤い小さな本だ。東京には知り合いも友人も相談相手もいない。増毛から札幌へ出たときもそうだった。ただ、このときは札幌に兄が一人いた。三國建設の現社長である。僕はやりきれない気持ちになるとよく兄の部屋へ行った。兄は「俺は遊びに行く、おまえ泊まっていけ」と、いつも部屋を空けてくれた。兄の優しさを感じた。今思うと兄も辛かったのだと思う。
 そんな兄が「清三は増毛に土地を買え。俺は家を建てる」と言った。今思うとそれは兄から僕への最大の励ましの言葉でもあったのだと思う。そしてそれは僕達兄弟の共通の夢となった。その後その夢が叶い、貧乏をしていた父と母に増毛で一番海に近い土地と家をプレゼントすることができた。その後一年で親父は亡くなった。いつも海を見ていたらしい。何を見ていたのか聞きたかった。親父は鰊が獲れていた頃、大成功して金持ちになった。それを他所から来た芝居人に騙され、無一文になったという。自分の家も借金で取られ、それから貧乏が始まったらしい。その取られた家と土地を兄と僕とで取り戻したのだ。今はその家にお袋が一人で暮らしている。唯一の楽しみは兄が買ってあげたカラオケ。毎晩近所のじいさんやばあさんを集めて歌っているという。そのせいだろうか、いつも元気である。そのお袋に毎日言われていたことがある。「清三、長いものには巻かれなさいよ。稲を見なさい。青いうちはぴんと立っているけれど、実が付けば付くほど頭が垂れる。いいかい、そういう人間になるんだよ。偉くなればなるほど頭を垂れるんだよ」この言葉は今でも僕の身に染みている。
 毎日仕事が終わって、板橋のぼろアパートの三畳間に帰る。疲れて身も心もぼろぼろである。自分が身を持って体験したことだが、体力はあっても精神が疲れると、人間どうしようもないことがわかった。この世の終わりだとか、なぜ自分だけが辛い目にあうのか、死んでしまいたいだとか、それは気が狂いそうであった。そのときいつもあの『道をひらく』を読んだ。不思議にも必ずそのときの僕に当てはまることがその本には書かれていたのだ。本当に不思議でならなかった。その時はこうして頑張るんだ、こうして乗り越えるのだと、その本に教えられ、導かれたのである。僕はそのときつい声をあげた。これで生きていけると。それからである。自分のために生きるのを止め、人の為に生き、考え、実行することを決意した。休日は老人ホームへボランティアにも出かけた。十八才のときのことであった。
 二十才のとき村上総料理長に呼ばれ、大使館の料理長に推薦された。そのとき村上総料理長は言われた。「十年後は君達の時代がやってくる。紙を一枚一枚重ねるような努力をしていけば、必ず生きていけると。」
 そのとき、僕は神の存在を確信した。