フランス料理シェフ 三國 清三
第2回 初めての挫折

 僕の生まれは、増毛町である。父は漁師、母は農業を営んでいた。今は漁師も農業も廃業してしまっているが、自給自足の半農半漁であった。家は非常に貧しく、その日暮らしだった。海が荒れると、決まって、次の朝早く、親父と浜へ行って拾い物をするのが日課であった。時化のあとの浜には必ずホヤガイが落ちていた。そして僕は必ずそのホヤガイを食べた。この経験は僕が料理人を志すきっかけとなった。しかし、それは今だから言えることで、その当時はまさか、ホヤガイの味が僕の将来を決めてしまうなんて思いもしなかった。ホヤガイには四つの味が隠されている。塩味、酸味、甘味、苦味。この四つの味を知っていることが人間にとって、また料理人にとって一番重要な要素である事がわかったのはその後のことだ。
 ホヤガイの味が、僕のそののちの人生の総てを変えるとは世の中不思議なものである。これは神様のいたずらだったのか、またはあわれみだったのか。今僕は四十八歳だ。今これまでの四十八年間の自分自身の人生を深く顧みると、ホヤガイを食べ、四つの味覚を知るあの経験を得ることができたのは神様の僕に対してのあわれみの他の何でも無かったのだということがわかる。
 僕は十五才で増毛を出て、料理人を志した。料理人になるためには、そのような試練が待っているのか、その時は知る由もなかった。十五才で札幌に出たが、お金がなく、住む家もなく、まして学歴もない。本当に何もなかった。人間はこれほど何もないと、おかしなもので、あっさり開き直れるものだ。奢らず、高ぶらず、求めず、欲しがらず。ただ自分の前には一本の道しかなく、ただ熱心に未来へと続く糸を手繰りながらその道をまっすぐ歩けばいいのである。僕はまだ、十五才だったが、迷いはまったくといっていいほどなかった。
 札幌で夜間調理学校に通い、卒業と同時に札幌一番のホテル、札幌グランドホテルのパートとして入り、僕は来る日も来る日も無心に鍋洗いをした。ある日料理課長の青木さんに声をかけていただいた。青木さんは無心に鍋洗いする青年をあわれと思ったらしく、僕を呼んで顔を見るなり、「明日から正社員だ」と言われた。こうして僕はお金も住む所もいただいた。
 それでも僕は無心に働いた。ある日先輩に呼ばれ、「三國、いい気になるな。お前が北海道で一番になったとしても北海道一では駄目だ。日本一のシェフが東京にいある。日本一の帝国ホテルの村上料理長というシェフが日本一だ。お前はいい気になるな。増毛から出てきた奴が到底適うわけがない。あきらめろ」と言われた。
 しかし、僕は無心でその人に会いたいと思った。強く思った。毎日思った。思い続けた。ある日、青木さんに呼ばれ、「三國、東京に行くのか」と訊ねられた。僕は黙ったままで返事をすることができなかった。反対されると思ったからだ。僕が黙っていると青木さんが「ついて来い」と言われた。青木さんについて行くと、今は亡き札幌グランドホテル総料理長、斉藤慶一シェフが待っていらっしゃった。斉藤シェフは青木さんの話を聞いていたらしく、「三國、どうしても村上料理長のもとに行くのか」と訊ねられた。僕は「行きます」とだけ答えた。シェフは「東京はつらいぞ」とだけ言われ、東京の料理長への紹介状を僕に渡された。そのとき、青木さんは無言だった。
 十八才のとき、その紹介状一枚を手に、僕はホテルの前に立っていた。まさかそこから二年間もの間、鍋洗いが始まるとはそのとき考えもしなかった。また自分の人生で初めて挫折を味わうことになるとは夢にも思わなかった。