シンガーソングライター 五十嵐 浩晃
第3回 そして

 静内高校の校内放送で発表した「コンブとりの唄」が大ヒットし勢いづいた僕は、北星学園に入学した後も風呂場でトイレで道端で、メロディーが浮かべばどこででも曲が作れるようになっていた。そんな大学三年の頃、学園祭のライブに出演することになり、再び「コンブとりの唄」を披露。他にも曲はあったけど、自信作はやっぱり高校で大ヒットした「コンブとりの唄」。今思えば、もうちょっと大人のラブソングなんかが良かったんじゃないか?という気もするが、これを歌ったことでまたまた人生は大きく転換することとなるから不思議なものである。ライブに来ていた先輩からグループを組まないかとの誘いを受け、札幌市内のライブハウス5〜6軒で活動するうちに、レコード会社の人から遂にオーディションの話が。少しの期待感で受けてみたのが、CBSソニーのオーディション。就職も内定していた大学四年生の夏のことだった。予選を通った時には我ながらびっくりしたが、結局北海道地区代表からは堀江淳クンと僕、他にもハウンドドッグや村下孝蔵さんなどと一緒にデビューすることとなってしまった。信じられない結果に少し戸惑いながらも、プロとして一生歌を歌って行くことをこの時決意したのであった。
 とは言えプロの世界は甘くない。最初は五輪真弓さんの前座で全国行脚、次はみかん箱の上で歌う店頭プロモーションなどの日々を経て、ようやく1980年5月に「愛は風まかせ」で本格デビュー。が、しかしこの曲は北海道でこそヒットしたものの、全国では197位と今ひとつ。次こそはと出した「ミルクレディ」で牛乳メーカーのCMを狙ったものの、企画倒れの上当然ながらヒットもせず。これで駄目なら早くもプロ引退と宣告されて出したサードシングルが、「ペガサスの朝」。あれよあれよ言う間に全国チャートで2位まで駆け登り、五十嵐浩晃最大のヒット曲にさせてもらえたのである(ちなみに当時の1位は「奥飛騨慕情」)。
 振り返ると僕はプロとして24年間、歌い続けていることになる。ヒット曲もあれば泣かず飛ばずの曲もあるし(むしろこの方が多い)、仕事のストレスで十二指腸潰瘍にもなり死にそうな目にも遭ったけど、それでも僕はまだ歌っている。こんなに長い間歌い続けていられるのは、僕の力なんかじゃないと思う。どんな時でも支えてくれる友人だったり、チャンスをくれる先輩だったり、ずっと応援をしてくれるファンだったり、苦しみを分かち合う家族だったり。46歳になった今、これからもずっと歌い続けていこうと思う。
 窓の外を見ると、北海道は雪景色。一面が真っ白に染まり空気が凛とするこの季節が、僕は一番好きだ。全てが芽吹く前の「さあこれからだ」という、そんな曲を書いて行けたら、こんなに素敵な人生はないと思う。そして周りの人、全てに感謝する気持ちを忘れずにいられたら、僕の人生は大成功だと思う。