がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第9回 歴史から見えるもの(9)―屯田兵の父、永山武四郎―

 北海道開拓の歴史の中でひときわ目立つのが、屯田兵制度による開拓です。屯田兵とは普段は軍事訓練をしながら開墾にいそしみ、いったん事変が起こると鍬を握る手に鉄砲を持ち、戦線へ出撃するという任務を背負っていました。
 屯田兵の入植は明治8年(1875年)の琴似屯田(札幌市西区)から始まり、明治32年(1889年)の剣淵・士別屯田兵(剣淵町・士別市)まで続けられました。道内に37兵村が形成され、兵の数は7337人、家族を含めると4万人にものぼりました。
 永山武四郎は屯田兵制度の創設に携わり、屯田本部長、屯田司令官を務め、兵と家族たちから"屯田兵の父"と慕われたのです。
 永山は薩摩藩士の四男に生まれ、戊辰戦争に官軍として従軍しました。明治4年(1871年)に陸軍大尉になり、翌年開拓使入りし札幌勤務になると、黒田清隆の命で、屯田兵制度の創設に取り組みました。黒田は会津藩や仙台藩などの敗北藩士を屯田兵として北海道へ送り込み、北辺の警備と開拓にあてようとしたのです。
 永山は兵村の建設用地を確保するなど計画を進めるかたわら、同士らと連名で太政官に対して建白書を提出。これにより開拓長官の黒田は屯田憲兵事務総理を兼任することになります。こうして明治8年、札幌の琴似に最初の屯田兵村が、翌年は山鼻に兵村が誕生します。
 ところが明治10年、西南戦争が起こり、黒田は屯田兵に出勤を命じます。永山は屯田兵を率いて出陣しました。郷土の大先輩、西郷隆盛を討つのですから複雑な思いだったでしょう。だが琴似屯田の主力は元会津藩士ら。官軍としての出陣だけに、恨みを晴らす好機と喜び、果敢な戦いぶりを見せました。
 屯田兵村はその後も年々増えていきます。永山は屯田本部長に栄進し、二代目の北海道庁長官を命じられます。軍部のトップが長官を兼務することなど前代未聞のことでした。
 明治22年秋、屯田司令官になった永山は明治天皇に謁見し、屯田兵による北辺の警備と開墾の成果を説明しました。天皇は喜ばれ、翌年建設する上川兵村は「永山と名乗るように」と述べました。旭川の永山は明治天皇がつけた名前というわけです。
 永山はことあるごとに兵村を回り、兵や家族たちを励ましました。日清戦争には兵士を率いて出陣し、生死をともに戦いました。"屯田兵の父"と慕われた理由がわかるようです。
 屯田兵制度が廃止になり、永山は第七師団長になりました。永山は口を開くと「国防こそ大事、備えあれば憂いなし」と語り、「死んだら遺体を札幌の地に埋めよ。死してもこの北海道を守る」と遺言しました。亡くなったのは明治37年(1904年)、遺族らは遺言に従い、遺体に軍服を着せて札幌の墓地に葬りました。
 身を捨てても国を守る―、明治から大正、昭和初期を生きた人々は、こうした意志を持っていたのです。公のために命を捧げる。その意味を考えるのも大事なことではないかと思うのです。