がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第8回 歴史から見えるもの(8)―間宮林蔵と松田伝十郎―

 間宮林蔵が樺太(現在のサハリン)と中国大陸との間に海峡があるのを発見したのは文化6年(1809年)のことです。これにより「間宮海峡」と名付けられ、林蔵は歴史に名を刻むことになります。でも実際はそれより1年前に、松田伝十郎により発見されていたという事実をご存知でしょうか。
 文化5年4月、幕命を受けた林蔵と伝十郎は宗谷を出帆しました。伝十郎は松前奉行調下役で40歳、林蔵は蝦夷地御用雇で34歳。身分からいえば林蔵の方が格下でした。
 樺太の南端ノトロ岬に渡った2人は、ここでアイヌの若者を雇い、伝十郎は西海岸を、林蔵は東海岸を舟で逆上がります。林蔵は島伝いにシンノシレトコ岬(現在のテルペニア岬)まで行きますが、その先は茫々たる海が広がっているだけでした。
 これ以上進めないと判断した林蔵はマヌイまで戻り、山越えして西海岸に抜け、ノテトというところで伝十郎と再会しました。伝十郎はすでに西海岸を踏査し、樺太が離島であることを確認し、戻る途中でした。
 伝十郎の話を聞いた林蔵は、「私もこの目で見たい」と言い、伝十郎は同意します。伝十郎の『北夷談』に、

   迷惑ながらよんどころなく、
   再度ナッコに渡海してラッカ岬に至りノ

と記されています。年長で格上とはいえ、農民出身の心優しい伝十郎は、すげなく断ることができなかったのでしょう。
 ラッカまで行き、樺太が大陸と離れた島であるのを見た2人は、宗谷へ戻ります。報告を聞いた松前奉行の川尻春元は、林蔵が東海岸の踏査を途中で止めたのを厳しく断じ、結局、林蔵は再検分を申し出ます。
 死を覚悟した林蔵は、世話になった宗谷アイヌの人たちに「私がもし帰らなかったら、これを墓石にしてほしい」といって石を預け、7月13日、単身、宗谷を出発します。
 樺太に着いた林蔵は、すぐに仕事を始めますが、そのうち寒さが襲い、食料も尽きてきて、やむなくトンナイというところで越年します。
 あけて文化6年5月、林蔵は氷が融けるのを待ってノテトから船で西海岸を進み、樺太の北端ナニオーに着き、樺太が間違いなく島であることを確かめます。ここで少数民族の首長が大陸に向かうのに同行し、国禁を破って海峡を渡り、後に『東韃地方紀行』『北蝦夷図説』を著すのです。
 林蔵が世界の表舞台に登場するのはこの二十余年後の1832年、シーボルトの『日本辺海略図』に「MAMIYANOSETO(まみやのせと)」と記されたことによります。
 実は意外な資料が手元に現存します。宗谷から引き揚げる際の文化5年の夏の「道中日記」ですが、そのうちの根室から箱館までの記録の最後に、伝十郎と林蔵の名前が並んで記されているのです。でも日付からみるとこの時期、林蔵は樺太で越冬を覚悟したころです。帰国の一行の中にいるはずがありません。
 この「間宮林蔵」の文字は、伝十郎が記した、と筆者は判断しています。本当なら一緒に帰るべき林蔵が、再び樺太に赴かねばならなかった。生きて帰ることはなかろう、せめてこの記録に留めておこうノ、こう考えると伝十郎の心優しい気持ちが理解できるのです。