がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第6回 歴史から見えるもの(6)―“逆賊”にされた人たち―

 戊辰戦争はわが国を二分した戦いでした。今号は朝敵と罵られながら、唇を噛んで北海道に渡り、伊達市の開拓に尽くした仙台藩亘理領の話を紹介しましょう。
 戦いに敗れた仙台藩は62万石から28万石に減封され、傘下の亘理伊達家は、わずか58石5斗に減らされてしまいます。亘理領には1,362戸、8,000人近くが住んでいました。これでは到底、家臣とその家族を養っていくことができません。しかも領地は南部藩のものになるというのです。
 この時、家老の田村顕允は領主の伊達邦成に対して、「北海道へ渡り、北門警備に当たりながら開拓に励み、朝敵の汚名を晴らそう」と建言します。邦成は刀を捨てず、武士の体面を保って生きるこの意見を容れ、太政官に北海道移住の嘆願書を提出して、許可されます。
 明治2年(1869年)10月20日、邦成は入植地となる有珠郡モンベツを一目見ようと赴きます。その時に詠んだ歌が残っています。
 春に見し都の花にまさりけり
 蝦夷がちしまの雪のあけぼの
 翌年3月、家老の田村を筆頭に、家臣、家族220人の第1回移住が行なわれました。仙台の寒風沢を出航し、函館を経て元室蘭に着きましたが、60センチもある積雪と、熊の毛皮をまとったアイヌの人たちの出迎えを受け、思わず身をすくめたといいます。
 でもアイヌの人たちは親切で、老人や子どもたちは背負われて有珠の会所へ行きます。翌日から入植者たちは、原野の樹木を伐り倒し、家を建て、開墾を始めます。刀を鍬に持ち替えた開墾は、筆舌に尽くし難いものでした。
 その秋、第2回の移住者72人が入植しました。だが想像を絶する気象、風土に作物は思うように実らず、食うや食わずの暮らしになります。家老の田村は困惑し、領主邦成にも移り住んでほしいと願い出ます。邦成は同意しました。
 これを聞いた邦成の妻菊子の母、貞操院保子も「私も行きましょう」と言います。保子は45歳、本藩仙台藩主の娘で、仙台の亘理領主に嫁ぎ、「お祐様」と呼ばれていました。
 領主だけでなく「お祐様」まで行かれる、という話はあっという間に広まり、明治4年(1871年)2月の第3回の移住者は総勢780人に膨れ上がったのでした。
 北海道に渡った保子は、入植者と同様、板囲い、板敷きの粗末な家に住み、毎日毎日、家々を回って人々を励ましました。領主や家老も先頭に立って開墾に尽くしました。入植者たちは奮い立ち、固い団結のもと厳しい労働に耐えたのでした。
 亘理領の移住は明治14年(1881年)の第9回まで続けられ、合計2,651人にのぼりました。小さな村がそっくり移ったといえましょう。こうした人々の汗と涙の苦闘によって今日の伊達市ができあがったのです。先人達の労苦を忘れてはなりません。
 保子が後に詠んだ和歌が伊達市開拓記念館に現存します。
 にいはりにちから尽くせし
 もも千はた
 珠ある里になりにけるかな