がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第5回 歴史から見えるもの(5)―200年前に起きた悲劇―

 いまから200年ほど前、蝦夷地と呼ばれた北海道のシャリ(斜里)場所で、想像を絶する惨事が起こりました。北方警備についていた津軽藩の藩士たちが、寒さと病、飢えのため72人が次々に亡くなっていったのです。
 この悲劇を「松前詰合一条」の表題で日記に記したのが、斉藤勝利という22歳の若い藩士です。読んでいくと、あまりの物凄さに身が震えます。
 文化年間になってロシアは、樺太や千島で日本人漁場を襲い、礼文島や利尻島沖合で日本船を襲撃するなどの乱暴を重ねます。幕府は文化4年(1807)、津軽、南部、それに仙台、会津藩に警備の強化を命じました。
 ソウヤ(宗谷)を守備する津軽藩に、新たにシャリ守備の命が下り、藩士ら100人は3隊に別れて出立しました。藩士らがこの地に勢ぞろいしたのは旧暦の8月。すでに晩秋です。藩士らは浜辺に建つ茅葺き小屋に入り、越冬の準備を始めます。
 異国船接近の情報が入るなど緊迫した中で、厳しい冬がやってきました。早くも病人が出始めます。斉藤勝利は11月14日の日記にこう記しました。
 日増しに氷はり、その上氷押上がり、大山の如くに相成申候。皆々驚き入り申し候。
 初めて体験する北国の冬の物凄さに、狼狽する様子が見えます。
 野菜が不足して浮腫病にかかるものが続出し、11月25日に最初の犠牲者が出ます。以後も死者が相次ぎ、このままでは死を待つばかりと、重傷者をソウヤに向かわせましたが、たどり着いた者はいませんでした。
 新しい年を迎えましたが、毎日のように死者が出ます。恐怖に震えながら、打つ手も無いままその日を過ごす藩士らの心境はいかばかりだったでしょう。
 3月になると食べ物や飲み水にも事欠くほどになりました。3月15日の日記には、
 三御長屋、御人数残らず病気に相なり、飲料取り世話いたし方、水飲みの者もなく、枕を並べて寝るあり様見るに、哀れを催し… と書かれています。
 4月2日、海面を埋めていた氷が融け、やっと春がめぐってきました。だが死者は減ろうとせず、6月までに合計72人に達しました。
 交代要員を乗せた船がシャリに着いたのは閏6月24日。いまかいまかと待ち焦がれていた人々は、船を見たとたん、狂ったように浜辺に駆け降りたといいます。
 でもこの事件は明らかにされませんでした。津軽藩が幕府の処置を恐れて内密にしたのです。斉藤は悔しさの余り、日記の冒頭に、「他見無用(たけんむよう)永く子孫江伝(つたう)」と書きました。
 この書物が発見されたのは昭和29年(1954)。いまは亡き高倉新一郎さん(北大教授)が偶然、東京の古本屋で見つけたのです。すでに150年近くが経過していました。
 これにより斜里町に殉難慰霊碑が建立され、弘前と友好都市が結ばれました。その縁で弘前に伝わるねぷたを基にした藩士の霊を鎮める「知床ねぷた」が誕生しました。歴史の不思議さを感じますね。