がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第4回 歴史から見えるもの(4)

 北海道神宮の境内に開拓神社が鎮座しています。この神社は昭和13年(1938)、北海道開拓70年を記念して、物故開拓者を祭祀したもので、祭神は37柱にものぼります。
 蝦夷地と呼ばれた北海道に赴いた伊能忠敬、間宮林蔵、最上徳内、近藤重蔵・・・といった先覚者をはじめ、明治維新後に開拓に尽力した方々ばかりです。
 この中には豪商、場所請負人、船頭など意外と思われる人も含まれていますが、面白いのは、かつて朝敵とされた人物もいることです。北海道の開拓がさまざまな人々の汗と涙で進められた証左でしょう。
 祭神の一人に、“強腕”で鳴らした岩村通俊がいます。岩村は開拓使の2代目判官として札幌に入り、島義勇の構想を引き継ぎ、本府建設に励みます。大通を設け、道幅を島の構想よりさらに広げて105メートルにし、北を官庁街に、南を商業街にしたのです。
 大通は現在、雪まつりの舞台として世界から大勢の観光客が集まります。140年も前に、よくもこんな大胆な都市計画が実行された、と思われがちですが、実は、大通は火防線の役割を果たしていたのです。家事は当時、恐ろしいものの筆頭なのでした。
 さて、そんな岩村がやってのけたのに「御用火事」があります。札幌に入植した人々の家の建築資金を貸し付けたのに、いつまでも草葺き家がなくならない。怒った岩村は官員を動員して一軒一軒焼き払ったのです。馬にまたがり、「御用」の旗をひらかせて指揮する岩村の絵が時計台に残っています。
 岩村はその後、開拓次官の黒田清隆と「札幌会議」で対立し、その職を追われます。これを機に“薩摩憎し”が嵩じていくのです。
 開拓使が廃止になり、三県一局制度もわずかな期間で終わり、北海道庁が発足します。初代長官になった岩村は、薩摩閥を排除する一方、官員を兼職させるなどして業務を簡略化し、無駄を省きます。
 そして新たな構想を押し進めます。その最大のものが北海道の内陸の開拓でした。岩村は上川に北京を建て、天皇をお呼びし、開拓に勤しむ人々に勇気を与えようとしたのでした。
 岩村が石狩川を遡り、上川の近文台にのぼった時に詠んだ五句絶句が残っています。

 涓埃(けんあい)未だ国に報いず
 歳月杳杳(ようよう)として流れる
 五十にして半白を戴き
 何の苦為し此に遊ぶ
 願わくば上川の無人境に入り
 近文山上に高楼を建てたい

 無人境に入り、山上に高楼を建てたい・・・、岩村の心の高鳴りを知ることができます。
 上川道路を開削するなど意欲的に事業を進めた岩村は、やがて元老議員となり北海道を去ります。後を継いだ永山武四郎により、北京―上川離宮の建設は決まりますが、結局は実現しませんでした。旭川の上川神社境内に建設予定地を示す標識が立っています。
 岩村はその後、農商務大臣、宮中顧問官などを歴任し、御料局長の時は、膨大な御料地を道庁に払い下げて植民地とし、農民に開墾させるなど、北海道開拓に心を砕きました。