がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第3回 歴史から見えるもの(3)

 明治維新により蝦夷地が北海道と名を改めたのは、明治2年(1869年)8月。前回のこの欄で紹介した松浦武四郎の献策によるものですが、国家建設の目的で北海道へやって来たのは開拓主席判官の島義勇(よしたけ)でした。
 島は肥前藩士で、開拓使初代長官の前藩主鍋島直正(閑叟)の推挙によります。この時、島と同時に開拓判官になったのは岩村通俊や松本十郎、そして松浦武四郎らでした。
 島は安政5年(1857年)、箱館奉行堀利煕の近習として初めて蝦夷地、樺太(現在のサハリン)を調査しており、「エゾ通」の武四郎と会ってロシアの南下政策に危機感を抱き、この地を一刻も早く開拓しなければならないと話し合っています。開拓判官になった島が、出立直前に武四郎から意見を聞いたのは言うまでもないでしょう。
 二代長官東久世通禧らとともに箱館に渡った島は、「開拓三神」を背負って札幌に入り、志村鉄一らの先導でコタンベツの丘に登ります。明治2年11月10日(現在の暦で12月12日)、雪が降りしきっていました。島は平野を望んで次の七言絶句を詠みます。コタンベツの丘とは現在の北海道神宮の背後の丘です。

 河水遠く流れて 山隅に峙(そばだ)つ
 平原千里 地は膏腴(こうゆ)
 四通八達 宜しく府を開くべし
 他日 五州第一の都

 河水とは石狩川、豊平川を指し、この豊かな大地に府を開いたなら、いずれ五州第一の都になる、という意味です。五州とは志士らが好んで用いた言葉で、世界の五大陸をいいます。島は、札幌の地を「世界一の都」と詠んだのでした。このあたり島の「北海道紀行草稿」(北海道神宮蔵)に記されています。
 島の札幌府建設は意欲的に行なわれます。だが兵部省が海岸線を管轄するなど、開拓行政が二重構造になっていて、ことごとに対立します。島は苦し紛れの対応を取ったため出費が嵩み、東久世長官の怒りを買います。
 翌明治3年2月、島は東京召還を命じられ、志半ばで北海道を去りました。その後島は、大学小監や明治天皇の侍従などを勤めます。ところが明治7年(1874年)、故郷の佐賀(肥前)で政治に対する不穏な動きが高まり、急ぎ説得に赴きます。そこで若者たちが藩閥政治を激しく批判しているのに打たれた島は、憂国党を結成、江藤新平の征韓党と合流して蜂起したのでした。「佐賀の乱」です。
 新政府は大群を送り込み、憂国党、征韓党を打ち破り、島、江藤は逮捕されて現地の臨時裁判所に送られます。そこで弁明の機会もないまま「除籍の上、斬首、さらし首」の判決を受け、翌早晩、処刑されます。明治天皇が維新の功績を惜しんで、助命するよう急便を送ったが、間に合わなかったといいます。
 島の功績が復活したのは大正5年(1916年)、境内の桜が蕾(つぼみ)を持ち出す季節でした。この桜は、部下だった福玉仙吉が島を偲んで植えたものでした。
 島の銅像は、神宮境内の開拓三神を背負った像と、もう1つ、札幌市役所玄関ホールにコタンベツの丘から手をかざして眺める像があり、ここに七言絶句が刻まれています。