がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第21回 歴史から見えるもの(21)―黒田の開拓使と呼ばれて 黒田清隆―

 開拓使の黒田か、黒田の開拓使か―、とまで言われた第二代開拓長官の黒田清隆。その生涯をひもとくと、箱館戦争を戦った武人、黒田と、後に総理大臣まで上り詰めた政治家、黒田の 二つの顔 が浮かび上がってきます。
 黒田は薩摩藩士の家に生まれました。薩摩を離れて江川太郎左衛門の塾に入り、砲術を学び、文久三年(一八六三)に起こった薩英戦争に参戦しました。尊皇攘夷の動きが高まる中、京都に上り、西郷隆盛の下で薩長同盟を成立させ、大政奉還、王政復古へと維新回天の大事業をやり遂げました。
 戊辰戦争が起こり、黒田は北越戦争に参戦しますが、旧幕府軍の榎本武揚が蝦夷地へ侵攻し、箱館・五稜郭を奪い取ると、明治二年(一八六九)四月、新政府征討軍を指揮して反撃し、猛攻の果てに相手を降伏させました。
 この戦いで榎本は、オランダ時代に学んだ「海津全書」が焼失するのを恐れ、「日本海軍のために使ってほしい」と差し出します。受け取った黒田が感激し、酒五樽を返礼として贈り、 戦場に咲いた武士道 と讃えられました。
 黒田は、斬首されるはずの榎本を助けようと、頭を丸めて会議に臨み、「この通りだ」と頭を下げました。結局、榎本は命を救われ、明治五年(一八七二)、黒田の開拓使に入ります。
 開拓使には黒田が雇い入れたお雇い外国人がいました。榎本は自ら鉱山調査をして回り、石炭の開発の道筋をつけました。
 このころ最大の難題が、日露雑居地の樺太でしばしば起こるロシア兵の狼藉でした。黒田は武力で押し通すロシアの強硬な態度に、樺太を切り捨てるほかなしとして政府に健言します。これにより榎本は海軍中将・駐在公使としてロシアに赴き、樺太・千島交換条約の調印にこぎ着けるのです。
 黒田はこの一方で、屯田兵制度を設けて屯田兵憲兵事務総理になり、北辺の防備を固め、明治十年(一八七七)に起こった西南戦争では、指揮官として屯田兵まで出陣させ、先輩の西郷隆盛を討ち果たしたのでした。
 北海道開拓十年計画が終わりに近づき、黒田はこの事業を継続させようと、官有物を薩摩出身者に払い下げます。これが表面化して黒田は辞任、開拓使は消滅し、札幌、函館、根室の三県制になります。開拓使官有物払い下げ事件といわれています。
 開拓使を辞めた直後、黒田は、札幌に北京と定めて離宮を置くよう建白しました。天皇に、しばしば北海道に来ていただこうというのです。いかに黒田が北海道に意を注いでいたかが伺えます。
 黒田はいったんは政治の表舞台から去りますが、明治二十年(一八八七)、農商務大臣として復活し、翌二十一年には第二代総理大臣になります。そして同二十二年には憲法発布を迎えます。その後、枢密院議長になるなど、薩摩出身の重鎮として君臨しました。
 明治三十三年(一九〇〇)、病のため亡くなりましたが、葬儀委員長はかつての朝敵だった榎本武揚が務めました。箱館戦争で芽生えた友情は、脈々と波うち続け、黒田の長女は榎本の長男に嫁ぎ、両家は固い絆で結ばれていたのでした。