がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第20回 歴史から見えるもの(20)―創成川を作った先達 大友亀太郎―

 札幌市の東西の分岐点となる創成川は以前、大友堀と呼ばれていました。この川を開いたのが大友亀太郎という人です。以前は北一条の創成川沿いに銅像がありましたが、いまは札幌市東区の札幌村郷土記念館の前に移されています。
 えっ、札幌村って、それ何なの?と思う方がいるかもしれませんね。実はかつて、亀太郎が開墾した札幌村と、開拓判官島義勇が開拓を進めた石狩府、後の札幌府と二つの札幌があったのです。ここではそんな話も交えながら、亀太郎の話を書いていきます。
 亀太郎は現在の神奈川県小田原の農家に生まれました。二宮尊徳の門下生になり、農業の大切さを学び、安政五年(一八五八)、幕府に召し抱えられ、蝦夷地と呼ばれた北海道へやってきました。
 亀太郎は木古内、大野を開墾して「蝦夷地全国永年開墾見込書」を箱館奉行に提出しますが、その中に「石狩国原野ヲ実検スルニ最良ノ原野ハ札幌ナリ」と記しました。そして慶応二年(一八六六)、札幌、すなわち現在、札幌村郷土記念館が建つ元町と呼ばれる地域に入植して開墾に着手し、そのかたわら農業に大切な用水路の建設に取りかかったのです。
 現在の南五西二あたりを流れる豊平川の支流に取水口を設け、直線に用水路を掘って、自然の傾斜を利用して水を流すのです。川底の幅九〇センチ、上部が一八〇センチ、深さ一五〇センチの堀を掘りだし、東区北十三東十六まで延長四キロメートルを、突貫工事で開通させたのでした。
 ところが明治維新により幕府が崩壊し、新たな政治が始まり、亀太郎は新政府の箱館裁判所付属、石狩国兵部省出張所開拓掛として、苗穂村の開墾に当たります。
 相前後して開拓使の初代開拓判官として石狩(札幌)本府建設のため着任した島義勇は、大友堀側の現在の南一西一に基点を設けます。これにより「二つの札幌」が生まれるのです。義勇はすかさず亀太郎に対し、開拓の仕事に携わってほしいと頼み、「開拓切りひらきの像」を贈りました。亀太郎は好意に感謝しながらも、その任務に就くことはできないとして、開墾した札幌村と苗穂村を義勇に引き渡し、故郷に帰っていきました。
 その時、書いた漢詩が残っています。中国の詩人、柳宗元が詠んだもので、その意味を読みとくと、亀太郎の心情が見えてきます。亀太郎は長州閥の兵部省と肥後閥の開拓使の板挟みになり、醜い藩閥政治に失望したのではないか、と思えるのです。
 亀太郎が去ってほどなく、義勇もまた札幌を去っていきます。札幌本府を中心にした中心地が「札幌」の地名として浸透し、札幌村は「元村」「元町」の名で伸びていきました。いまなお札幌村神社や札幌村郷土記念館など札幌村にこだわる意味が理解できますね。