がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第2回 歴史から見えるもの(2)―龍馬の着想と武揚の真情―

 坂本龍馬は北海道を目指していた―、こんな胸の高鳴るような話をご存知でしょうか。
 風雲急を告げる幕末、龍馬は若い命が失われていくのを嘆き、蝦夷地開発を訴え、賛同した同志らを船に乗せ、神戸を出航します。江戸に着いた直後、師の勝海舟を訪ねますが、海舟はその日、元治元年(1864年)6月17日の日記にこう記しています。
 坂本龍馬下東、右船(黒龍丸)にて来る。聞く、京摂の過激輩数十人、皆蝦夷地開発通商、為国家奮発す。此輩黒龍船にて神戸より乗廻すべく、此義御所並に水泉公もご承知なり。
 蝦夷地へ行くことを、御所も幕府老中水野和泉守忠精も了承しているという文面です。
 ところが龍馬が江戸まで航海中、京都で新選組による池田屋事件が起こり、浪士多数が殺され、その中に龍馬の同志で、海舟の神戸海軍操練所の生徒、望月亀弥太が含まれていたのです。龍馬は、勝に迷惑がかかると直感し、蝦夷地行きを中止しました。案の定、勝は江戸召還を命じられ、神戸海軍操練所は閉鎖になります。龍馬の最初のつまずきです。
 だが龍馬は諦めず、薩摩藩の後ろ盾でワイルウェフ号という船を入手します。ところがこの船が五島塩屋崎で難破し、同志の池内蔵太ら十二人が死んでしまいます。二度目の失敗です。
 土佐藩の海援隊長になった龍馬は、何としても目的を果たそうと、今度は大洲藩からいろは丸を借り、慶応三年(1867年)4月、初仕事の航海に出ます。その直前、同志の印藤肇に便りを書いています。
 小弟ハエゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間、何とぞ一人でなりともやり付申べくと存居候。
 龍馬の固い決意がうかがわれます。ところがこの船が、瀬戸内海の備後鞆の津沖で紀州藩の明光丸に衝突され、沈没してしまいます。
 そのうえ土佐藩の後押しで購入した大極丸で蝦夷地へ、と思っていた矢先、イギリス兵を殺害した犯人が大極丸に逃げ込むという騒ぎに巻き込まれます。龍馬は地団駄踏んで悔しがり、同志に「方向を定め、シュラか極楽かにお供すべく」と書き送ります。その便りから4日後、龍馬は京都で暗殺されるのです。龍馬がもし生きていたら、北海道の開拓はもっと違ったものに、と思えてなりません。
 龍馬の死後、幕府は倒壊し、明治新政府ができます。この政権誕生をめぐる薩摩、長州の態度に怒った旧幕府軍副総裁の榎本釜次郎(武揚)は、艦隊を率いて品川沖を脱走し、蝦夷地に侵攻します。榎本はこの北の大地に、新しい理想の国家を作ろうとしたのです。
 だが新政府軍の反撃に遭い、夢はもろくも崩れます。榎本は駕籠に乗せられて東京(江戸改め)に護送されますが、その途中に書いた七言絶句は、その真情を映して余りあるものがあります。
 結局、榎本は許されて再び北海道の地を踏み、開拓に力を尽くすことになるのです。