がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第1回 歴史から見えるもの(1)―松浦武四郎の慧眼―

 松浦武四郎は「北海道」の“名付け親”として知られています。明治新政府ができた直後の明治二年(1869年)八月、開拓使判官になった武四郎は、北海道のほか十一国八十六郡の国郡名もつけています。
 ところでこの「北海道」ですが、武四郎は最初、六つの候補の一つとして「北加伊道」を示しました。北海道に住むアイヌの人びとはたがいに「カイノー」と呼び合っていました。カイは「この国に生まれた者」、ノーは尊称です。結果的に「加伊」は「海」になりましたが、武四郎はこの地名にアイヌの人びとの思いを込めたのです。
 武四郎が蝦夷地と呼ばれた北海道へやってきたのは弘化二年(1845年)春。アイヌ民族の協力で江差から日本海側を北上しますが、途中、瀬棚近くで松前藩の役人に咎められ、やむなく引き返し、反対側の太平洋岸を回り、知床岬まで行きます。翌年は江差の人別帳(戸籍)に入れてもらい、再び日本海側を北上し、知床岬に達した武四郎は前年立てた標識を見て感激します。
 この後、蝦夷地が幕府の直轄地になったとき、箱館奉行の御雇として沿岸を回り、樺太(現在のサハリン)や国後、択捉まで足を踏み入れ、さらに内陸の石狩川をはじめに多くの河川を踏査しました。
 武四郎は多くの文献を残していますが、そのなかにこんな文章がみえます。安政四年(1857年)に石狩川を逆上ったときのものです。
 ツイシカリ川(豊平川)三里を上り札幌の辺りぞ大府を置くの地なるべし…此の札幌に府を置玉はば、石狩は不日にして大坂の繁盛を得べく、十里遡り津石狩(江別市対雁)は伏見に等しき地となり…
 札幌に大府、すなわち道都を設けるべきであると主張したのです。ほとんど開けていない北海道を探検し、即座に「ここだ」と判断したその慧眼には、恐れ入るばかりです。この踏査で武四郎は、北地にはびこる場所請負制度がアイヌ民族を苦しめているのを知ります。場所を請け負った知人がアイヌ民族を使役してあくどい儲けをしていたのです。
 武四郎はその事実を次のような文章で訴えます。
 このアイヌの姿は、勇払の万人の妾に成りおると。それ故、夫を石狩に遣わし置いて、常々番屋へ連行置くという。その請負人の遣い方、憎むべし。悪の極みならずや。
 しかし幕府の箱館奉行は武四郎の訴えに耳をかそうとしません。武四郎は憤然として職を辞します。
 やがて幕府が倒れ、新政府ができ、武四郎は開拓史の判官になりますが、北海道開拓をすすめるにあたり、新政府に対して場所請負制度の廃止を訴えます。しかし政府は動きません。武四郎は激怒し、またも辞めてしまうのです。
 差別の撤廃と人類の平等という武四郎の訴えが通るのは平成九年(1997年)、武四郎が亡くなって百年目。札幌の本府建設もそうですが、その慧眼には敬服するばかりです。