がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第19回 歴史から見えるもの(19)―維新の渦に消えた生涯 志村鉄一―

 志村鉄一という人物を知っていますか。今から百五十年も前、幕府の石狩役所時代から札幌に住みつき、明治維新後は札幌本府を開府に携わった初代判官、島義勇の先達として、町づくりに努力した人なのです。
 鉄一が未開の札幌にやってきたのは安政四年(一八五七)。この時期、ロシアによる北辺の危機が叫ばれ、蝦夷地(北海道)の開拓こそ急務といわれていました。幕府は松前藩から蝦夷地を取り上げて直轄地とし、箱館奉行を設置し、それに伴い石狩役所を置き、荒井金助を石狩役所調役に任じました。鉄一はこの金助の配下として札幌にきたのです。
 鉄一は信州生まれの剣客というほか資料もなく、はっきりしません。どこかで金助に会い、引き立てられたのでしょう。すでに五十歳を過ぎていたといいます。
 金助は松浦武四郎の新道選定に基づき、石狩湾の銭函から札幌の西側をたどって千歳に至る新道を開き、現存する勇払―千歳間に接続させようと、石狩や勇払の各場所請負人に命じ、大急ぎで開通させたのです。「札幌越新道」といいます。
 ここで重要なコースとなった豊平川(もとは札幌川と呼ばれた)の渡し守と通行屋を、鉄一に任せたのです。豊平川は暴れ川として恐れられていました。鉄一は妻子を連れて川の東側河畔に住みました。対岸には吉田茂八一家が住みつきました。茂八は猟師です。すご腕の鉄一がいるので安心、と通行人たちに喜ばれたそうです。
 翌安政五年六月、鉄一の通行屋に、松浦武四郎が訪れて宿泊しました。この時、詠んだ和歌が残っています。箱館奉行が立ち寄り休憩したのもこの年です。
 このころ鉄一の心をとらえたのが大友亀太郎という人でした。農民を連れて札幌村(元村)に入植し、豊平川の支流を水源にする用水路を切り開いて、開墾に尽くしたのです。大友堀といい、現在の創成川のことです。
 慶応三年(一八六七)、幕府が倒れて、箱館奉行も石狩役所もなくなり、天皇の政治になりました。ところが明治元年(一八六八)、榎本武揚率いる旧幕府軍が箱館に攻め込みました。遠くへ逃れる武士たちの中で、渡し船や通行屋の代金を踏み倒そうとする者もいます。こんな時、鉄一は「武士ともあろうものが」と大喝して金を払わせるのでした。
 明治二年(一八六九)十一月、札幌本府建設の判官、島義勇がやってきました。鉄一を先達としてコタンベツの丘に登った義勇は、一望して、ここに大府を建設することにします。鉄一は通行屋の建物を解体して運び、それで開拓使の建物を建てました。義勇は心から喜びました。
 ところが義勇はわずか三カ月で札幌を去ります。鉄一は愕然となりました。
 鉄一が亡くなったのは明治十二年(一八七九)冬と推定されます。鉄一と親交のあった阿部与之助家に伝わる話によると…。
 吹きすさんでいた吹雪が止み、与之助が養女に様子を見にいくよう指示した。養女が深雪をこいで鉄一宅に行き、窓から覗いてみると、鉄一は消えた囲炉裏のそばで、刀を抱いて眠るように息絶えていた。そばに飲みかけの酒の茶碗がおいてあった…といいます。
 明治維新の渦の中に消えていった人たちもいたことを忘れてはならないと思います。