がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第18回 歴史から見えるもの(18)―樺太と千島開拓に献身 岡本監輔と前野五郎―

 樺太・千島の開拓に尽くした岡本監輔と前野五郎の変わった二人を紹介します。このころ樺太は北蝦夷地と呼ばれていましたが、ここでは文面が煩雑になるので、樺太に統一して書き進めます。
 岡本監輔は文久四年(一八六四)、幕府から樺太在住を命じられ、日本人として初めて樺太を一周し、ロシアの進出に強い危機感を抱きます。
 京都に戻った監輔は慶応四年(一八六八)一月、戊辰戦争の最中、侍従清水谷公考に会い、樺太の現況を訴えました。清水谷の建議により、朝廷は箱館裁判所を設置し、清水谷を総督に、監輔を権判事・樺太担当を命じます。監輔は早速、移民を連れて樺太に渡り、クシュンコタンに公議所を設置し、新たな政治に着手しました。
 そのころ前野五郎は、維新の動乱に揉まれていました。阿波藩士の次男で、出奔して京都に出て新選組に入り、天満屋事件を戦います。しかし新選組は分裂し、五郎は永倉新八らと靖兵隊を組織し、野州、奥州を転戦します。熾烈な戦いの中で、岡本監輔なる者が「日本人同士が争っている場合か。ロシアの暴挙が見えぬのか」と主張し、樺太へ渡ったのを耳に、八となったのです。
 監輔の出身地が同郷と知った五郎は、明治と改元になった同年秋、戦線を離脱して樺太へ向かいました。五郎を迎えた監輔は心から喜び、役人として作業現場の監督に就かせました。五郎は張り切って仕事に励みました。
 明治二年(一八六九)六月、濃霧を突いてロシア艦隊がアニワ湾に接近し、公議所にほど近いバッコドマリにロシア人二百人を上陸させ、家屋の建設を始めました。公議所が抗議しても、相手にしません。五郎に怒りがこみ上げました。監輔は新政府に実情を訴えようと、東京へ向かいました。
 新政府は開拓使を設置し、長官以下次官、判官を任命し、監輔は改めて樺太担当判官に任ぜられました。
 監輔が三百人の移民を連れて樺太へ戻ったのはこの秋。農民だけと知ってロシア兵の横暴がよりひどくなりました。
 樺太担当の開拓次官に就任した黒田清隆は、樺太を視察し、ロシアとの紛争を避けようと、樺太の開拓使の廃止を提案しました。監輔は憤然となり、判官を辞職し、故郷へ戻ります。五郎もまた監輔を追って辞職願を出し、札幌に移ります。そして遊女屋を開いて、金を稼ぎまくりました。
 明治八年(一八七五)、樺太千島交換条約が締結され、樺太はロシア領になり、千島が日本領になりました。だが千島の開発は頓挫したままです。
 明治二十四年(一八九一)、監輔が千島を巡視した後、札幌の五郎を訪ね、「大事な樺太を放棄して得た千島がいまだ手つかずのままだ。千島議会を興し、開発する」と決意を述べました。五郎はその言葉に感激し、店をやめ、すべての金を千島議会に投じて千島へ向かいました。
 ところが五郎は択捉島の海岸を調査中、誤って自分が所持していた銃が暴発し、死んでしまいます。殺害されたともいわれます。監輔が哀しみを込めて書いた文書が徳島県立図書館に残っています。札幌市の里塚霊園には、五郎の大きな墓が立っています。