がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第17回 歴史から見えるもの(17)―豪胆な“タイショー”高田屋嘉兵衛―

 高田屋嘉兵衛は江戸後期に箱館(函館)に拠点を置き、蝦夷地(北海道)の海産物を運ぶ一方、いまは北方領土と呼ばれる択捉島に新しい漁場を開きました。また日本とロシアの間で起こった紛争を、持ち前の豪胆さで解決したことで知られています。
 嘉兵衛は明和六年(一七六九)、瀬戸内海に浮かぶ淡路島の、貧しい家の長男に生まれました。二十二歳の時、兵庫で回船問屋を営む叔父のもとで、江戸(東京)へ酒樽を運ぶ樽廻船の船乗りになりました。体は小さいが、筋肉たくましく、弁舌さわやかな嘉兵衛は、直ぐに頭角を現し、やがて念願の北前船の船頭になります。
 五年後、酒田に「高田屋」の看板を掲げ、新造船「辰悦丸」で蝦夷地との交易を始めます。兵庫から米、酒、塩、煙草などを、蝦夷地からは昆布などの海産物を運ぶのです。弟の金兵衛らも一緒になって働きました。
 このころロシアは日本の北辺を狙っていました。幕府は間宮林蔵や近藤重蔵らに北方探検を命じ、かたわら寛政十年(一七九八)、松前藩から蝦夷地支配を取り上げて直轄にします。嘉兵衛は幕府の要請に応じて生活必需品を蝦夷地に運び、厚岸、根室、そして国後島まで足を延ばして産物を買いつけ、本州へ送りました。
 翌寛政十一年、嘉兵衛は近藤重蔵に呼ばれます。重蔵は前年夏、択捉島に渡り、「大日本恵登呂府」の標識を立てた人物です。「択捉航路を何としても開きたい」と相談を受けた嘉兵衛は、すかさず船で国後島から択捉島に渡り、択捉航路と漁場を開いたのでした。
 嘉兵衛はやがて蝦夷地御用船頭から択捉、根室などの場所請負人になり、本店を箱館に移し、経営は隆盛の一途をたどります。
 文化九年(一八一二)夏、嘉兵衛は観世丸に乗り、択捉島を出航し、国後島沖に差しかかった時、ロシア船に逮捕、連行されます。実は前年、ロシア船二隻が千島列島を測量中、薪水を補給しようとして国後島に上陸し、守備隊の日本兵に見つかり、船長ゴローウニン中佐以下八人が捕縛、連行されたのです。それに対する報復でした。
 カムチャツカに送られた嘉兵衛は、ひと冬の間にロシア語を学び、副船長のリコルドと話し合います。そしてともに国後島に戻り、幕府役人にゴローウニンの釈放を働きかけました。この時リコルドは、救出には一戦も辞さない覚悟でしたが、嘉兵衛は「私は捕らわれて以後、ロシアの厚遇を受け、幸い無事である」と伝えました。リコルドは感嘆し、交渉のすべてを嘉兵衛に任せて釈放しました。
 嘉兵衛は帰国するとゴローウニンの釈放を幕府に訴え、リコルドが船で箱館に入ると、真っ先に出迎えました。ゴローウニンは無事にロシア側に引き渡され、ロシア兵らは嘉兵衛を「タイショー(大将)」と呼び、敬服したといいます。
 函館市の高田屋嘉兵衛記念館で七代目の高田嘉七さんに会い、嘉兵衛が海産物を買い取る時、アイヌ民族も和人も同額で買い取っていた事実を示す資料を見せられました。嘉兵衛の人間を愛する気持ちが資料から伝わってくる思いでした。