がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第16回 歴史から見えるもの(16)―理想郷目指した関寛斎―

 関寛斎(せきかんさい)という人物を知っていますか。寛斎は徳島藩の医師で、維新後、札幌農学校に進学した息子に乞われて、七十歳を過ぎてから十勝の陸別町斗満(とまむ)に入植した人です。
 寛斎は現在の千葉県中村の吉井家に生まれ、関家の養子になります。寛(ゆたか)とも呼ばれました。佐倉順天堂で医学を学び、長崎でオランダ人医師ポンペに師事、文久二年(一八六二)、徳島藩の藩医になります。
 慶應四年(一八六八)、戊辰戦争が起こり、奥羽戦争の野戦病院である奥羽出張病院の院長として、負傷者が出ると敵味方の区別なく治療しました。寛斎は「医をもって人を救い、世を救う」「患者に上下はない」を信条としていたのです。戦後、徳島で開業医になりますが、貧しい家に病人が出るとすぐに出かけて治療しました。人々は寛斎のことを「ゲタばきの名医」と呼んで敬愛しました。
 このころ一番恐ろしい病気が疱瘡でした。寛斎は子供たちに種痘を施し、発生を未然に防ぎました。またコレラ医療にも尽くし、医学書を著しました。寛斎は「一に養生、二に運動、三に薬」を上げています。いまでいう予防医学です。
 ところが転機が訪れます。寛斎には八男四女の子供がいましたが、札幌農学校(いまの北海道大学)に学ぶ四男の又一が、「学業を実践したい」と言いだしたのです。寛斎はその願いを聞き入れ、石狩市の樽川に農場を取得します。明治二十七年(一八九四)のことでした。
 そして明治三十五年(一九〇二)、十勝の陸別町斗満に四百五十万坪の貸し下げを受けて入植します。すでに七十二歳の高齢になっていました。
 寛斎は開墾に精を出します。だが冷害などに見舞われ、作物は少しも稔りません。そうした中、アイ夫人が亡くなります。しかし寛斎は挫けず、豊頃に入植した二宮尊親(二宮尊徳の孫)を訪ねて、この農場が入植者に土地を分け与えているのを知り、そのやり方に変えます。これにより斗満の開拓は著しく進んでいきます。
 明治四十三年(一九一〇)、友人の徳富蘆花が、関農場を訪ねて、後に著書『みみずのたはごと』にこう書きました。

 だが農業経営をめぐって寛斎と息子たちの対立が続きます。農場を開放して小作人を自作農にしたい寛斎と、アメリカ式の大農場への夢を抱く息子たち。これでは意見があいません。
 明治が大正に変わった年の秋、思わぬ難題が降りかかります。孫の大二(長男生三の次男)が祖父を相手取り、財産分与を求めて訴訟を起こしたのです。裁判所の呼び出しに対し寛斎は、息子の一人を代理人として出頭させ、翌日、服毒自殺しました。八十三歳でした。辞世は、