がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第15回 歴史から見えるもの(15)―ガルトネル事件を解決 第二代開拓長官東久世通禧―

 東久世通禧が開拓使の第二代長官として北海道・函館の地を踏んだのは明治二年(一八六九年)九月二十五日のことです。島義勇ら五判官以下、官吏や東京で募集した農、工移民二百人を従えていました。
 函館に着いた東久世は、直ちに旧箱館府庁を開拓使出張所と改称し、自ら岩村通俊判官らとともに函館に留まり、札幌本府の経営に島義勇、根室に松本十郎、宗谷に竹田信順の各判官を派遣し、北海道開拓に乗り出しました。樺太には岡本監輔判官が一足先に着いていました。
 この時期、政府の財政は逼迫し、諸藩や省庁などに北海道を分割所管させていたので、開拓使の所管区域は二十郡だけ。箱館戦争が終結してまだ四カ月余り、人心は揺れていました。
 東久世は、住民を永住させ、産業の奮い立たせようと、まず悪弊といわれた場所請負人制度の撤廃に乗り出しました。だがなかなか実効は上がりません。札幌本府の建設を進める島義勇が工事費を使い過ぎるとして激怒し、「工事費を増やすか、島を切るか」と迫り、その挙げ句、島が更迭されたのは有名な話です。
 もっとも東久世の頭を悩ませたのがガルトネル事件でした。これは函館を抑えた旧幕軍総帥の榎本武揚が、プロシア商人R・ガルトネルに七重村付近一千ヘクタールの土地を九十九年間租借する契約を結んだものです。しかも旧幕軍が降伏した直後に、新政府の清水谷公考がその契約書に署名してしまったのです。
 国際問題になるのを恐れた政府は、東久世に解決を委ねました。東久世は朝廷が新政権を握ってから外交事務総督として神戸事件や堺事件などを処理しました。早速、ガルトネルに会い、粘り強く交渉し、結局、六万ドルの賠償金を支払うことで、契約を破棄させたのでした。
 この土地は東京官園所属となり、農業技術者を東京から送り込み、果樹、野菜、雑穀などを試作しました。その後、七重農業試験場となり、北海道農業の発展の基礎を固めていきました。
 いまこの地に「ガルトネル・ブナ保護林」の看板が立っています。ガルトネルが残したブナ林ですが、国際紛争が残した歴史的遺産といえるでしょう。
 東久世のもう一つの外交問題は樺太の経営をどうするか、でした。ロシアは急速に軍事力を強め、幕末に結んだ条約を破ってクシュンコタンやバッコドマリの施設を占拠し、日本人に対して暴挙を繰り返していました。東久世は国際事件が続発する遠隔地の樺太を管理するのは難しい、と主張しました。これにより明治三年(一八七〇)二月、北海道と分離して樺太開拓使が設けられ、樺太専任の次官に黒田清隆が就任することになるのです。
 さて、函館に戻る途中の東久世は、札幌に立ち寄り、更迭した島の札幌本府建設の模様を見て、その雄大さに感嘆します。そして函館から札幌に開拓使本庁を移すのです。
 東久世が開拓長官から侍従長に転じたのは明治四年十月。わずか二年そこそこの在任でした。ともすれば忘れられがちになりますが、北海道にとっては大事な方なのです。