がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第14回 歴史から見えるもの(14)―江差で詠んだ和歌 清水谷公考―

 明治新政府が誕生し、箱館(函館)府知事として蝦夷地(北海道)にやってきたのが、清水谷公考という若い公卿です。数え二十四歳、いまなら大学を出て間もない年齢ですが、蝦夷地開拓に熱い思いを抱いていたのです。
 慶應四年(一八六八)一月、戊辰戦争が起こり、国内は激しく揺れていました。このまま内戦が続けば、蝦夷地はロシアに奪われてしまうと心配した公考は、同僚の公卿とともに「早急に蝦夷地に鎮撫使を派遣すべし」と建言しました。この時期、幕命で蝦夷地に駐屯していた奥羽の諸藩が、幕府の崩壊により本藩に引き揚げるなど防備は手薄になっていたのです。
 新政府は四月、五稜郭に箱館裁判所を設置し、副総督の公考を総督に昇進させました。公考は閏四月十四日、腹心の権判事、岡本監輔や箱館在勤の役人らを引き連れ、京都を出発、駿河から長州藩船に乗りました。
 津軽海峡を越えて蝦夷地に着いたのは二十四日。この二日前に新政府は箱館裁判所を箱館府と改称しました。府知事に任命された公考は二十六日、旧幕府箱館奉行の杉浦誠から事務を引き継ぐと、箱館の人々に対して、天皇による新しい政治が始まったことを伝えました。
 公考が真っ先に赴いたのは蝦夷地きってのお宮である江差の姥神大神宮でした。公考は神前に進み出、蝦夷地の開拓が速やかならんことを祈り、次の和歌を詠みました。

この浦のた美(民)を
育亭し姥神に
猶ゆくすえを祈きまつるな李

 この和歌は、姥神大神宮に秘蔵されています。
 箱館府が開庁されましたが、人心の不安は高まるばかりでした。公考は再び人々に向け、安堵のお触れを出しました。そして岡本監輔と農工民二百人をカラフトに送り込み、防衛体制を強化しました。
 そうした中、新政府に従うと約束した松前藩の正議隊が、藩政改革に乗り出し、家老を次々に死に追いやる事件が起こりました。一方で最後まで箱館に布陣していた南部藩兵が陣を焼いて撤退しました。択捉と根室に視察に出した井上石見が帰途、行方不明になる事件が起こりました。公考は相次ぐ事態に翻弄され続けました。
 十月二十日、榎本武揚率いる旧幕府脱走艦隊が攻め込み、噴火湾鷲ノ木から上陸しました。迎え撃つ箱館府兵と峠下で戦いになり、突破した旧幕軍が、五稜郭目がけて進撃を始めました。箱館戦争の勃発です。おののいた公考は、船で箱館を脱出しました。無念の撤退でした。
 新政府軍の青森口総督になった公考が、陸海軍を動員して蝦夷地に攻め込み、奪い返したのは翌明治二年(一九六九)五月のことです。この後、公考は政治から離れて、ロシアに五年間にわたり留学するなど学問にいそしみましたが、わずか三十八歳で亡くなります。悲運の生涯でした。