がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第13回 歴史から見えるもの(13)―「邑則(ゆうそく)」を憲法にした吾妻謙―

 戊辰戦争に敗れた仙台藩は六十二万石から半分以下の二十八万石に削減され、一門の岩出山領は一万四千石余からわずか六十五石に削られてしまいました。これでは家臣七百六十人を養うこともできません。
 岩出山領主の伊達邦直は故郷を捨てて北海道移住を決意し、家老の吾妻謙を開拓執事に任じ、新政府に開拓志願書を提出しました。「自費を持って開拓にあたり、死力を尽くして万分の一でも償いたい」という悲壮なものでした。だが領内は移住に反対する者が多く、対立が激しくなっていました。
 この時期、同様に北海道開拓を願い出た伊達邦成は、邦直の実弟に当たります。
 新政府から開拓沙汰書を得た邦直は、家臣らとともに明治三年(一八七〇)三月、蝦夷地へ渡り、支配地となる「石狩国空知郡の内ナヱイとナイ迄」へ赴きました。だが開拓の見込みが立たず、改めて石狩に近い厚田地区の分譲を開拓使に願い出ますが快諾は得られず、故郷へ引き揚げます。
 邦直は吾妻と相談して『移住は自主裁断、心身強固な者、家族同伴」を条件に希望者を集め、自ら家屋や家財を売って渡航費を工面しました。
 明治四年三月、第一回の移住者五十一戸、百八十人が寒風沢港を出帆し、聚し っぷ富に到着しました。一行はここに草小屋を建て、作物の種を蒔きました。だが土地が痩せていて種は芽吹きません。
 開拓使の東久世通禧長官は、代替地の申請を指示します。この時、開拓使の役人をしていた仙台藩涌谷出身の小野寺周記が「当別が適地である」と伝えたのです。吾妻は当別を訪れて肥沃な土地であることを確認し、改めて開拓使に願い出て、許可されたのでした。
 この年七月、吾妻は当別川右岸に道路を東西に設け、間口四十間、奥行百間の土地を一戸分として移住者たちに配分しました。邦直も部下と同じ大きさでした。土地が広いのは、せめて故郷をしのごうという気持ちからでした。
 岩出山に戻った邦直は第二回の移住者を募り、移住反対派の意向で伊達家の血族である姉娘二人、三男篤三郎を残します。移住者百八十九人は明治五年二月、出発し、途中で船が暗礁に乗り上げる不遇に見舞われながらも、当別に着きます。
 吾妻は邦直の命で「邑ゆうそく則」を起草しました。四十九条から成るこの「邑則」こそ、新しい町で生きる人たちの憲法でした。第一条には「事務の一切衆議に決すべし」とあり、「五戸をもって一伍とし、議員一名を選ぶべし」、「議事は議員の三分の二以上是とすれば之を行うべし」と記されています。またアイヌ民族に対して無礼にならぬよう説いています。この時代に、いかに民主的であったかが伺えます。
 当別を巡視した開拓使顧問のケプロンは、飛躍的に発展していく町並に驚き、開拓次官黒田清隆に「素晴らしい」と報告しています。主従の結束が苦難を乗り越え、新しい郷土を生んだといえましょう。