がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第12回 歴史から見えるもの(12)―義を貫いた中島三郎助―

 箱館戦争は壮絶な戦いとなりました。幕府脱走軍の中島三郎助は負け戦と知りながら、長男恒太郎、次男英次郎とともに箱館・千代ケ岡台場に布陣し、華々しく戦んでいきました。死こそ徳川への忠誠の証だったのです。
 中島家は代々、下田、浦賀両奉行所の与力を勤め、三郎助は八代目。徳川家に仕えて二百年になります。嘉永六年(一八五三)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した時、三郎助は奉行と称して黒船に乗り込み、交渉に当たりました。武士ながら俳諧にも優れ、多くの作品を残しています。
 三郎助は長崎海軍伝習所の一期生として、造船術などを学び、浦賀に戻り自ら鳳凰丸という軍艦を建造しました。だが病身のため家督を長男恒太郎に譲り隠居します。ところがオランダから新造艦開陽丸とともに帰国した榎本武揚の要請で、同艦の機関長になります。榎本は海軍伝習所の二期生で後輩でした。
 この時期、尊王攘夷の嵐が吹きすさび、将軍徳川慶喜は大政を奉還します。それを潔しとしない旧幕府軍が薩摩、長州勢と鳥羽・伏見で激突し、戊辰戦争が起こりました。戦火は江戸、そして奥羽へと飛びます。
 慶応四年(一八六八)八月、榎本武揚は薩長中心の政治に不満を抱く旧幕府軍二千余を八隻の艦船に分乗させて、江戸・品川沖を脱走しました。その中に三郎助父子も含まれていました。艦隊は仙台からさらに北を目指し、年号が明治と変わった十月二十日、蝦夷地の噴火湾鷲ノ木に到着、一気に五稜郭を奪い取ります。箱館戦争の幕開けです。だが開陽丸が江差沖で座礁沈没し、三郎助は息子や浦賀奉行所の面々と千代ケ岡台場に布陣します。
 年が明けて明治二年、新政府軍の攻撃が伝えられ、死を覚悟した三郎助は妻子に別離の便りを出します。

 我等事、多年の病身にて若死いたすへきの処、はからすも四十九年の星霜を経しは天幸といふへきか。こたびいよ決戦、いさぎよくうち死と覚悟いたし候。与曾八(注・三男、三歳)成長の後ハ、我が微意をつぎて、徳川家至大の御恩澤を忘却いたさす、往年忠勤をとぐべき事頼入候
   明治二年三月三日    中島三郎助 永胤
   お寿々殿  与曾八殿(以下娘三人の名略)

 この年四月九日、新政府軍の征討軍が攻め込み、激しい戦いになりました。箱館市街は陥落し、弁天台場は降伏し、残るは五稜郭と千代ケ岡台場だけになりました。榎本は、このままでは中島家が滅びるとして、長男恒太郎に五稜郭への転勤を命じますが、応じません。
 五月十六日早朝、新政府軍が千代ケ岡台場を襲撃しました。三郎助は白刃を振るって戦い、弾丸を受けて死に、息子兄弟も戦死します。こうして千代ケ岡台場は落ちました。
 榎本が新政府軍に降伏を伝えたのは翌日。十八日開城になり、戊辰戦争最後の箱館戦争は終焉を告げたのです。
 死んで義を貫くー、いまも語り継がれる中島三郎助父子の話です。