がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第10回 歴史から見えるもの(10)―咸臨丸遭難が対立の基に―

佐藤孝郷と三木勉
 仙台藩白石領の片倉小十郎家来の第一陣が咸臨丸に乗り、仙台・寒風沢から北海道を目指したのは明治四年(1871年)9月12日。戊辰戦争で朝敵とされ、本藩は六十二万五千石から二十八万石に激減になり、「一家」である片倉家もわずか二十五石に減らされ、苦渋の末の北海道移住でした。
 引率者は開拓執事を命じられた二十二歳の家老・佐藤孝郷、その下に家老で添役の三木がつきました。佐藤は若いが本藩の家老職で、三十四歳の三木より格上でした。
 乗船した咸臨丸は安政七年(1860年)、幕府の遣米使節の随伴船として副使・木村摂津守を乗せ、勝海舟が艦長となり、日本人だけで太平洋を横断した栄光の船です。
 ところが咸臨丸は出帆して間もなく、暴風雨や高波にたたかれて、遠く南部沖合まで流され、乗船者の多くは船酔いで倒れ込みます。そうした中で、赤子を出産した女性が亡くなります。佐藤は船を函館に寄港させ、弔いました。
 九月二十日、咸臨丸は小樽に向けて函館を出帆しました。ところが天候が悪くなり、午後六時ごろ、木古内の更木岬沖合で座礁してしまいます。この時、佐藤は「船から下ろすのを乗船した時の順番にする」といいますが、三木は「老人子供から先に降ろしてほしい」と主張し、いまにも刀に手をかける騒ぎになりましたが、結局、三木は救助を求めるため海中に飛び込み、陸地を目差します。
 官船の咸臨丸が遭難したというので、陸地の泉沢村の集落は大騒ぎになり、名主の新井田久治郎はいそ舟を出して沈み行く咸臨丸に近づき、四百一人全員を無事に救出し、集落の家々に運んで介抱しました。
 一夜を過ごした人々は翌日、徒歩で函館まで戻り、第二陣の庚牛丸の乗船のものと合流し小樽に向かい、佐藤らは札幌に近い白石に村を開きます。しかし三木らは応ぜず、石狩で一冬を過ごし、翌年、手稲に入り、村を開きます。
 咸臨丸の遭難が移住団を分裂させ、それにより白石と手稲の二つの村を形作っていった、その二つがいま、地下鉄で結ばれているのをみると、歴史の不思議なものを感じます。
 ところで、遭難の模様を調べていくうち、意外な事実に直面しました。移住者の便りから、遭難した夜、海面は「金波銀波を洋上にチラシ」ていた、とあり、雇われアメリカ人船長が操船を誤ったのが原因としているのです。新井田家の口伝も「官船が遭難したというので、羽織袴で、高張り提灯を掲げて浜辺へ出た」といいますから、暴風でなかったのは明かです。
 どうやら、開拓使は、操船ミスを隠蔽するため、遭難を暴風雨のせいにしたと思われます。ですから開拓使の古文書は、すべてそうなっています。百科事典類を読みあさっても、咸臨丸の最期を明らかにした文章が見当たらないのは、逆に隠蔽を証明するものといえましょう。